本場ヨーロッパより直接買い付けした福岡のイギリスアンティーク家具専門店Perla
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西洋の様々なアンティークたち

ベビーチェアー

ベビーチェアやチャイルドチェアは「大きくなったら使わないもの」と思われる方も少なくないかも知れません。
使い込まれた木のぬくもりや、やさしい肌触りを感じることが出来るアンティークのベビー&チャイルドチェアはお子様が成長された後もお部屋のインテリアとして空間演出をしてくれるアイテムです。

お花を飾る花台としてや、フォトフレームを置いたりテディベアを飾ってみたりと使う人のセンス次第。
ベビーチェアという、小さなサイズだからこその可愛さを演出できます。

実際、店舗でもディスプレイとして使われているのをヨーロッパではよく見かけます。
日本に多く輸入されているものはイギリス、フランスが中心で、その他の国ではベルギーがあります。

詳しくは『アンティーク家具の歴史』からどうぞ。

陶磁器

西洋陶器の始まりは、紀元前8世紀のギリシャと言われています。
その後ローマでは赤色陶器が中世に入ると銀器やガラス器が用いられました。

そして大航海時代前夜のルネッサンス期ヨーロッパでは錫ゆうを用いた彩色陶器が焼き物の主流を示していました。
しかし16世紀末、大航海時代の到来とともに、ヨーロッパ各国に薄手で硬質な中国磁器がもたらされました。

ヨーロッパの王侯貴族は繊細で美しい食器に魅了され、競うように高価な中国磁器を買い求めました。
やがては自分たちでも同じような物を作りたいと思うようになり、各国の王たちは製法を研究させました。

1710年には錬金術師のヨハン・フリードリヒ・ベッドガーがザクセンの選帝侯アウグスト2世の命により、ヨーロッパで最初の硬質磁器の開発に成功しました。
高価な硬質磁器を生産することは国家にとっても経済的にも大きな意味がありました。

その後は技術も流出しヨーロッパ各国で硬質磁器が作られるようになって陶磁器文化が発展して行きました。
イギリス陶磁器の産業の発展は産業革命の進行とともに訪れました。

1745年ロンドンでイギリスで最初の磁器窯、チェルシー窯が創立され、1750年代に最盛期を迎えました。
ほぼ同時期にボウ窯も開窯、銅版転写方式を用いた磁器の生産を開始します。

それから少し遅れてウェッジウッドをはじめ、スタッフォードシャーに多くの窯が開かれました。
ここが陶磁器産業の中心として発展したのは、陶磁器を焼く燃料の石炭が豊富なこと、そして色彩豊かな多種の粘土が近隣で採掘できるなどの条件が揃っていたためです。

やがて各窯の工場では蒸気機関を導入し労働作業を分業化、産業革命が生産性の向上、品質の均一化をもたらしました。
しかし18世紀大陸で硬質磁器の開窯が進む頃、イギリスでは磁器の原料となるカオリン土が採取されなかったため、硬質磁器の開発は難航していました。

アンティークの陶磁器

1748年ボウ窯でカオリンの代わりに牛の骨灰を磁土に混ぜて焼き上げる、硬質磁器の一種、ボーンチャイナの焼成に成功します。
ついでスポードのジョサイア2世やウースター窯のバールによって改良が進められました。

軽くて丈夫なボーンチャイナは大量生産に向いており、イギリス各窯で生産されていきました。
茶器の大量生産の背景には1784年にイギリスの茶税が大幅に引き下げられ喫茶の習慣が上流階級から中流階級まで広がったことがあげられます。

さらに大陸の磁器メーカーが王侯貴族の管理化にあったのに対して、イギリスでは各メーカーが経済的に独立していました。
そのため自由競争が激しく個性的な製品も生まれていきました。

このような流れの元で西洋最大の陶磁器生産国へと成長していきました。
陶磁器を買うときに注意したいのが欠けやヒビなどのコンディションです。

アンティークのセットになった陶磁器の場合すべてが完全な状態で残っているものが少ないこともありますので、用途に応じて納得して買いましょう。
飾り棚に置いて観賞用にするのか、日常に使用するのか用途をはっきりさせるとよいでしょう。

また偽モノとあらもの(最近の製作品)を見分けましょう。
偽物は高価な窯の作品の場合なかなか見分けがつかない場合もありますが、窯のマークを後から絵付けしたり、手を加えた後が見られるものもあります。

そんなものは不自然さが感じられるものですので、美術館などで事前に本物と親しんで購入する際の参考にするとよいでしょう。

アンティーク陶磁器

ドイツ マイセン焼きについて

18世紀初頭のヨーロッパでは、東洋の磁器は金とほぼ同等の価格で取引され、白く固く美しい磁器焼成は各国王侯貴族の悲願で、それを叶えたのがザクセン選帝侯にしてポーランド国王、アウグスト王(1670〜1733)でした。

王の命から錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベドガー(1682〜1719)が白磁焼成に成功したのは5年後の1710年ごろマイセンにおいてでした。
王がマイセン窯に命じて作らせた磁器のコレクションは35000点余りで、それらのほとんどに関わったのが天才造形家ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー(1706〜1775)でした。

彼の作った動物の彫像は、今もなおその迫力ある作品の一部をドレスデン陶磁博物館で見ることができます。
フランスでルイ15世の治世が始まる、その優美なロココ様式が中央ヨーロッパ全体に広がります。

マイセン窯も1736年ごろバロックからロココ様式への転換をはかります。
ケンドラーは自分の才に溺れることなく新旧の絵画や素描を用いて転写したり、競争を恐れず、エーベルライン、エーダー、ライニケ等の造形家を雇い競作しました。

その結果マイセン・ロココといわれる名品が生まれていきました。
また1764年以降はフランスからミシェル・ヴィクトル・アシエ(1736〜1799)も呼ばれ、ケンドラーと並んで主任造形師に就任、このように革新を恐れず、手を抜かずという企業努力が世界一といわれる水準の高さを保つ秘訣のようです。

1781年にアシエが辞任後、その後を継承したのはユヒトツアー(1752〜1812)です。
この頃からマイセンでは新古典主義の動きが起こります。

彼はドレスデン博物館の古代美術館から多くの技術を学び、それらの肌合いを磁器に再現することに力を入れました。
中でも1784年に製作された三美神はその最高傑作のひとつ、アグライア、タリア、オイフロジーネという3人の女神像です。

その後、マイセンはビーダーマイヤー、歴史主義、自然主義へと様式をかえ、1875年には双剣のマークを登録商標とするなど企業努力を重ね、過去の作品にも学び、フィギュアにもさらに高い完成度で受け継がれていきました。

19世紀末から20世紀にかけては新しい芸術の動きであるアールヌーボーの影響をうけます。
マイセンは常に新たな造形美へと工夫を重ねていきます。

1946年には一時ソ連に管理されるなど戦後の苦難の時代を経験しますが、ベルナーやシュトラングなどのよる『芸術の発展を目指す集団』の設立(1960年)など今も前進を続けています。

オランダのデルフト焼きについて

十七世紀から十八世紀にかけてヨーロッパの近世陶芸に大きな足跡を残したオランダのデルフト陶器の誕生とその発展を述べるには、何よりもまず歴史的、社会的背景としてのこの国の独立にいたる経緯を知る必要があります。

かつてネーデルランドと呼ばれていた今日のオランダ、ベルギーにまたがる地方は1516年、それまでのハプスブルグ家の支配に代わってイスパニアの属領になりました。
当時のネーデルランドは南のフランドル、ブラバントからジーラント、北のホーランド、ホールン、フリースラントの全部で17州からなっていました。

その南部フランドル地方のブリュージュやアントワープは運河と良港を持つこの地方の北の玄関口として外国船の往来も多く、商工業が栄え、比較的自由な風潮の元で都市が発達していきました。

市民の多くは新しく台頭してきたカルヴィン主義を信仰する新教徒たちで、しばしば本国の旧教徒と対立していました。
そして1556年に即位したイスパニアのフェリッペ2世は市民にカトリックを信仰することを強要し、加えて過酷な重税を課して市民生活を脅かしました。

これに対し上流階級から市民に至るまで民衆は反抗し、南部のフランドル地方を中心に内戦が繰り返されることになったのです。
戦費を調達するための法外な重税は商工業を麻痺状態とし、民衆はこの暴政に立ち上がりました。

この相次ぐ戦禍により南部諸州は北部に移住し1581年には北のホーランドを中心とした北部7州はイスパニアから独立を宣言しました。
1609年にはオランダ共和国が誕生しました。

これより1世紀前の1508年、イタリアのカステル=ヂュランテの出身の陶工グッディサビノがアントワープに移住してきて、この地にマヨリカ焼成する工房を開きました。
彼はその数年後土地の女性と結婚し、妻の姓のアンドリエスに改名しています。

彼は大鷲や鮭と名づけた工房でマヨリカ風錫釉陶器やタイルを製作し、陶器の普及と発展に尽くしました。
彼の死後、工房は長子に引き継がれ、他の息子2人はアントワープで陶工として登録。

その一人ヨリスは戦禍を避けてミテルブルクに、もう一人はイギリスに渡り、錫釉陶器の誕生に大きく貢献しました。
彼らのほかクリスチャン・ファン・アベーレは1584年にアムステルダムにアドリアン・ボガートは1598年にハーレムにその他多くの陶工たちはデルフトやロッテルダム、あるいは北のフリースラントに移り住み、同地で新たに窯を築いて陶器やタイルの焼成に着手し、オランダ陶器の発展の礎を築きました。

ライティングビューロー

ライティングビューローと云えば日本でも人気なアンティーク家具の一つですが、その歴史は17世紀前半まで遡ります。
原型は聖書を入れた箱からという説もありますが定かではありません。

扉の内部には引き出しや書籍や書類を入れるピジョンホールがあり、機能的にはほぼビューローと同じとなりました。
ここにバイブルボックスの形状が取り入れられました。

機能、形状とも現在のビューローのライティング部分に近い物が生まれ、スタンドの上に据え付けられビューローオンスタンドと呼ばれる家具が作られ始めました。
現在のようにチェストオブドロワーズが下部につく形態になるのは18世紀に入ってからの事になります。

ライティングビューロー

ライティングデスク

ライティングデスクは記録によると17世紀中期以前にはイギリスでは極めて少なかったようです。
王制復古後になると、かなりの数が出回るようになったといいます。

はじめは甲板が傾斜した机だったものから発展して、後に引き出しつき書台となり、基本的には両膝が入る形で場合によっては広く使えるように半分に折りたたんだ拡張版がつき、小さな引き出しがスタンドのフリーズ部分に組み込んであるものが多いこのためスタンド部分のデザインが挽物師の腕の見せ所であったようです。

この時期に発達した挽物細工の一つはねじりん棒です。
これは18世紀に入ってもまだ地方で使われていたが、1700年代初頭にはもはや流行遅れになっていたようです。

初期のねじりん棒挽物細工の一つは17世紀の挽物師には操作が難しかった。
これを改善したのは送り台の発達で、職人が送り台に手を置きブラケットについている回転する刃が挽こうとする丸棒と平行してスライドするようになったからである。

もし刃に丸棒をつけてから左から右へただそのまま回転して溝を掘ると一周した線になってしまうが送り台によって螺旋状に挽けるようになりました。

ケーキスタンド

イギリスにおけるアフタヌーンティーの歴史は、日本や中国のお茶の伝統に比べると意外なほど浅いのです。
19世紀半ばにビクトリア女王に使えていた7代目ベッドフォード公爵夫人 (1783-1857) によって始められたといわれています。

ビクトリア時代の食事スタイルは、現在でもイングリッシュ・ブレックファーストとして知られるボリュームたっぷりの朝食、ごく軽い昼食、そして遅い夕食というのが一般的でした。
ベッドフォード公爵夫人は軽い昼食と遅い夕食の間に「小腹が空く」ことに悩まされ、ある日メイドに、 お茶と一緒にパンとバター、ケーキなどを持ってくるように命じました。

これが毎日の習慣となり、やがて公爵夫人は親しい友人をこの午後の「息抜き兼腹ごしらえ」に招くようになったのです。
そしてアフタヌーンティーと聞けば、一番に思い出すのは2段または3段になったケーキスタンドではないでしょうか。

でもこれは、ヴィクトリア時代からのものではなく、イギリスのホテルが開発したものだそうです。
卓上タイプのケーキスタンドはよく見かけますが、床に置くタイプのケーキスタンドは存在感もあるため、より一層優雅なアフタヌーンティーを演出してくれるアイテムです。

オークなどで作られていることが多くちょっとしたディスプレースタンドとして、お部屋に置くのも魅力的です。

ケーキスタンド

椅子とチェスターフィールド

諸説はありますが、一般的には19世紀前半ごろにフィリップ・チェスターフィールド伯爵に由来があると言われています。
イギリスのソファーで、厚みのある革を使用しており、背もたれにはボタン留めが特徴のソファーです。

使えば使うほど風合いが増し、色、艶が馴染んで良くなってきます。
手入れは2,3ヶ月置きに革用クリームを全体に薄く塗って乾燥を防ぐように使用すれば長く使用できます。

イギリス人の中にはヒビや破れたアンティークのチェスターフィールドをそのまま座って使用している方もいるくらいです。
いずれにしても使用すればするほど味わいが増してきます。

またビクトリア時代にフォーマルなコートとして広まって行ったチェスターフィールドコートも伯爵から由来があると言われています。
チェスターフィールドは一生または次世代にも使っていただけるソファーです。

チェスターフィールド

スプリングの椅子、布張り長いす、ソファー、ベッドがバーミンガムで1833年までに作られて流行します。
18世紀には裂地と詰め物によって椅子のデザインが決められ、最小の量の詰め物で外観を引き立てるようになっていました。

1840年代になるとフラシ天の裂地をたっぷりと使い、たくさんの詰め物でマシュマロのように膨れたシートが脚の上に乗るようになり、さらに1850年代には脚もフリンジ(房飾り)で隠れてしまいました。

多量のスプリングや詰め物をボタンで固定するため表面がへこんで掃除がしにくいものでしたが、これは当時イギリス以外でも流行しました。
ボタン締めは当時珍しいものではありませんでしたが、以前はもう少し高価な家具だけに使用されていました。

そしてチェスターフィールド ソファーはすでに200年近くも愛され続けたソファーです。
今では世界各地で見ることができるこのソファーですが、デザイン性もさることながら、本革を使用しているものは実用的でありかつ購入時は高価であっても一生物のソファーであるため経済的でもあるといえるでしょう。

銀器について

イギリスには古くから『銀のスプーンをくわえて生まれた子供は幸せになる』という諺があります。
これは一生たべることに困らないという例えに由来するもので、16世紀のイギリスでは赤ちゃんが洗礼を受けるときに、キリストと弟子の像をかたどった銀のスプーンを贈る風習があったからだといわれています。

このころのカトラリーは食事用というよりは宗教的な儀式に深い関わりのあるアイテムだったのです。
17世紀半ころまで、料理を大皿に盛り手づかみで食べるのが一般的だったようです。

カップやボールなどの銀器を食卓で使うようになったのは18世紀に入ってからのことだといわれています。
元々は武器や果物などを切る道具として携帯していたナイフですが、刃物製造業を営むマッピン家(後のマッピン&ウェッブ社)などの技術により銀はカトラリーへと姿を変えていきました。

そして18世紀後半ごろにフランスからフォークが持ち込まれるようになりました。
銀器の文化が生まれるには豊かな国政と支配層の財力が必要です。
当時のイギリス国家や貴族階級の人々は世界でも大帝国で経済的にも豊かでした。

しかし一般の国民も同じであったかというとそうではなく、ほんの一部の貴族階級に限られていました。
産業革命によりブルジョア階級と呼ばれる一般市民層が徐々に力をつけ始める19世紀中ごろから 20世紀初頭に彼らが憧れていた貴族階級の生活を積極的にまねを始めます。

この頃からイギリスの銀器の数は急増しました。しかし次第に市民階級で貴族のまねではなく、自分たちのスタイルを作ろうという運動が始まり、銀器のデザインも大きく変化し始めました。

クイーンアン様式やロココ様式ヴィクトリアン様式などに見られるように豪華な装飾から美しく機能的なデザインを求めたのです。
アーツ&クラフツやアールデコ様式へと徐々に移っていきました。そして 英国銀器の信頼性はこのホールマークによって得られています。

13世紀後半よりホールマーク制度が始まり、貴金属の品質を保証してきました。

ホールマーク

生産地や年代、製造元などを記した刻印をホールマークと称します。
純銀にのみ刻印され銀メッキなどにはこの刻印はありません。

当時は金や銀を貨幣として使用していました。貨幣制度を守り、偽物の流出を防いでいました。
品質は国営のアセイオフィース(金属品質検査所)によって厳しく管理されていました。

不良品や基準に満たない物、偽の刻印で検査を逃れようとしたものには重い処分が下されていました。
このような管理運営のもとクオリティー向上と英国の銀製品に対する信頼性が増していきました。

ガラス製品

西洋ではガラス製品の人気はイタリアやイギリスなど各国により様々あります。
ガラス製品よりも陶磁器を好む国や様々です。

それでは日本にいつガラスの文化が根付いたのでしょうか。
日本に本格的な西洋式のガラス工場が東京品川に設立され、やがて欧米と同じソーダガラスの日用の器が作られ、日本人にも身近なものと次第になって行きました。

近世日本で初めてガラス製品が作られたといわれるガラス発祥の地は長崎といわれています。
ポルトガル人または中国人が伝えたといわれております。

いずれにしても17世紀前半には吹きガラス製品が作り始められたようです。
江戸時代のガラスは鉛を多量に含む鉛ガラスで藍色や緑色、黄色などの色をつけて薄手に仕上げたものをポルトガル語でガラスを意味するビロードと呼ばれ、その製法は京や江戸に広まりました。

 

日本にガラスを伝えたのはポルトガルか中国のどちらかはっきりしてませんが、1570年の長崎開港のときにポルトガル人が伝えたという説がありますが、長崎で作られたのは鉛ガラスで、当時ヨーロッパで作られていたソーダガラスとは一致しません。

江戸時代の鉛ガラスは中国宋時代のものと製法が似ており、ガラス素材の製法は12世紀ごろに中国から伝来したと言われています。
その後ポルトガル人がヨーロッパ式の吹き技法を伝えたのではないかと言われています。

今では均一的で規格品になったガラス製品もアンティークの製品は気泡やしわなどが見られ、 とても味わい深いものが多く残っています。
皆様もぜひアンティークのガラス製品をお手に取られてみてください、規格品にはない温もりなどを感じられるかもしれません。

オランダのデルフト焼き

17世紀から18世紀にかけてヨーロッパの近世陶芸に大きな足跡を残したオランダのデルフト陶器の誕生とその発展を述べるには、何よりもまず、その歴史的、社会的背景としてこの国の独立にいたる経過を知ってく必要があります。

かつてネーデルランドと呼ばれていた今日のオランダ、ベルギーにまたがる地方は1516年、それまでのハプスブルグ家の支配に代わってイスパニアの属領となりました。
当時のネーデルランドは南のフランドル、ブラバントからジーラント、北のホーランドなど17州からなっていました。

その南部フランドル地方のブリュージュやアントワープは運河と良港を持つこの地方の北の玄関口として外国船の往来も多く、商工業が栄え、比較的自由な風潮のもとで都市が発達していました。
南部のフランドル地方を中心に内戦が繰り返されることとなり、戦費を調達するための法外な重税は商工業を麻痺状態とし、民衆はこの暴政に対し立ち上がった。

この間の相次ぐ戦火により南部諸州は荒廃し、多くの市民は難を逃れて北部に移住、そしてついに1581年、北のホーランドを中心とした北部7州はイスパニアから独立宣言。
1609年の和平によりオランダ共和国が誕生したのである。

これより1世紀前の1508年、イタリアのカステル・デュランテ出身の陶工ギッド・デイ・サヴィノが自由都市アントワープに移住してきて、この地にマヨリカを焼成する工房を開いた。
彼はその数年後土地の女性と結婚し、妻の姓アンドリエスに改名しています。

彼は『大鷲』や『鮭』と名づけた工房でマヨリカ風の錫釉陶器やタイルを製作し、陶器の普及と発展に尽くしたのです。
彼の死後、工房は長子に引き継がれ、他の息子2人はアントワープで陶工として登録します。

その一人ヨリスは戦禍を避けてミテルブルクにまたもう一人のヤスパーはイギリスに渡って築窯、同地の錫釉陶器の誕生に大きく貢献しました。
彼らのほか、クリスチャン・ファン・アベーレは1584年にアムステルダムにアドリアン・ボガートは1598年ハーレムに、その他多くの陶工たちがデルフトやロッテルダム、あるいは北のフリースランドに移り住み、同地で新たに窯を築いて陶器やタイルの焼成に着手し、オランダ陶器の発展の礎を築いたのです。