【用語解説】陶器、焼き物、銀器、ガラス製品など — アンティークハウスペルラ コンテンツにスキップ
【用語解説】陶器、焼き物、銀器、ガラス製品など

様々な種類があるヨーロッパのアンティーク。
今回は陶器、焼き物、銀器、ガラス製品など
小物・雑貨類を取り上げて
いくつか用語解説をしていきたいと思います。

陶磁器

アンティークの陶磁器

西洋陶器の始まりは、
紀元前8世紀のギリシャと言われています。

その後ローマでは赤色陶器が、
中世に入ると銀器やガラス器が用いられました。

そして大航海時代前夜の
ルネッサンス期ヨーロッパでは
錫ゆうを用いた彩色陶器が
焼き物の主流を示していました。

しかし16世紀末、大航海時代の到来とともに、
ヨーロッパ各国に薄手で硬質な
中国磁器がもたらされました。

ヨーロッパの王侯貴族は繊細で
美しい食器に魅了され、
競うように高価な中国磁器を買い求めました。

やがては自分たちでも同じような物を
作りたいと思うようになり、
各国の王たちは製法を研究させました。

1710年には錬金術師の
ヨハン・フリードリヒ・ベッドガーが
ザクセンの選帝侯アウグスト2世の命により、
ヨーロッパで最初の硬質磁器の開発に成功しました。

高価な硬質磁器を生産することは
国家にとっても経済的にも大きな意味がありました。

その後は技術も流出しヨーロッパ各国で
硬質磁器が作られるようになって
陶磁器文化が発展して行きました。

イギリス陶磁器の産業の発展は
産業革命の進行とともに訪れました。

1745年ロンドンでイギリスで最初の磁器窯、
チェルシー窯が創立され、1750年代に最盛期を迎えました。

ほぼ同時期にボウ窯も開窯、
銅版転写方式を用いた磁器の生産を開始します。

それから少し遅れてウェッジウッドをはじめ、
スタッフォードシャーに多くの窯が開かれました。

ここが陶磁器産業の中心として発展したのは、
陶磁器を焼く燃料の石炭が豊富なこと、
そして色彩豊かな多種の粘土が近隣で
採掘できるなどの条件が揃っていたためです。

やがて各窯の工場では蒸気機関を導入し
労働作業を分業化、産業革命が生産性の向上、
品質の均一化をもたらしました。

しかし18世紀大陸で硬質磁器の開窯が進む頃、
イギリスでは磁器の原料となるカオリン土が
採取されなかったため、
硬質磁器の開発は難航していました。

1748年ボウ窯でカオリンの代わりに
牛の骨灰を磁土に混ぜて焼き上げる、
硬質磁器の一種、ボーンチャイナの焼成に成功します。

ついでスポードのジョサイア2世や
ウースター窯のバールによって改良が進められました。

軽くて丈夫なボーンチャイナは
大量生産に向いており、
イギリス各窯で生産されていきました。

茶器の大量生産の背景には
1784年にイギリスの茶税が大幅に引き下げられ
喫茶の習慣が上流階級から中流階級まで
広がったことがあげられます。

さらに大陸の磁器メーカーが
王侯貴族の管理化にあったのに対して、
イギリスでは各メーカーが
経済的に独立していました。

そのため自由競争が激しく
個性的な製品も生まれていきました。

このような流れの元で西洋最大の
陶磁器生産国へと成長していきました。

陶磁器を買うときに注意したいのが
欠けやヒビなどのコンディションです。

アンティークのセットになった
陶磁器の場合、すべてが完全な状態で
残っているものが少ないです。

用途に応じて納得して購入するようにしましょう。
飾り棚に置いて観賞用にするのか、
日常に使用するのか用途をはっきりさせるとよいでしょう。

また偽モノとあらもの(最近の製作品)を
見分けましょう。

偽物は高価な窯の作品の場合
なかなか見分けがつかない場合もありますが、
窯のマークを後から絵付けしたり、
手を加えた後が見られるものもあります。

そんなものは不自然さが感じられるものですので、
美術館などで事前に本物と親しんで
購入する際の参考にするとよいでしょう。


ドイツ マイセン焼きについて

アンティーク陶磁器

18世紀初頭のヨーロッパでは、
東洋の磁器は金とほぼ同等の価格で取引され、
白く固く美しい磁器焼成は
各国王侯貴族の悲願で、
それを叶えたのがザクセン選帝侯にして
ポーランド国王、
アウグスト王(1670~1733)でした。

王の命から、錬金術師
ヨハン・フリードリッヒ・ベドガー(1682~1719)が
白磁焼成に成功したのは
5年後の1710年ごろマイセンにおいてでした。

王がマイセン窯に命じて作らせた
磁器のコレクションは35000点余りで、
それらのほとんどに関わったのが
天才造形家ヨハン・ヨアヒム・
ケンドラー(1706~1775)でした。

彼の作った動物の彫像は、
今もなおその迫力ある作品の一部を
ドレスデン陶磁博物館で見ることができます。

フランスでルイ15世の治世が始まる、
その優美なロココ様式が
中央ヨーロッパ全体に広がります。

マイセン窯も1736年ごろバロックから
ロココ様式への転換をはかります。

ケンドラーは自分の才に溺れることなく
新旧の絵画や素描を用いて転写したり、
競争を恐れず、エーベルライン、
エーダー、ライニケ等の造形家を雇い
競作しました。

その結果マイセン・ロココといわれる
名品が生まれていきました。

また1764年以降はフランスから
ミシェル・ヴィクトル・アシエ(1736~1799)も
呼ばれ、ケンドラーと並んで主任造形師に就任、
このように革新を恐れず、
手を抜かずという企業努力が
世界一といわれる水準の高さを
保つ秘訣のようです。

1781年にアシエが辞任後、
その後を継承したのは
ユヒトツアー(1752~1812)です。

この頃からマイセンでは
新古典主義の動きが起こります。

彼はドレスデン博物館の古代美術館から
多くの技術を学び、
それらの肌合いを磁器に
再現することに力を入れました。

中でも1784年に製作された三美神は
その最高傑作のひとつ、
アグライア、タリア、オイフロジーネという
3人の女神像です。

その後、マイセンはビーダーマイヤー、
歴史主義、自然主義へと様式をかえ、
1875年には双剣のマークを登録商標とするなど
企業努力を重ね、過去の作品にも学び、
フィギュアにもさらに高い完成度で
受け継がれていきました。

19世紀末から20世紀にかけては
新しい芸術の動きである
アールヌーボーの影響をうけます。

マイセンは常に新たな造形美へと
工夫を重ねていきます。

1946年には一時ソ連に管理されるなど
戦後の苦難の時代を経験しますが、
ベルナーやシュトラングなどのよる
『芸術の発展を目指す集団』の設立(1960年)など
今も前進を続けています。

オランダのデルフト焼きについて

十七世紀から十八世紀にかけて
ヨーロッパの近世陶芸に大きな足跡を残した
オランダのデルフト陶器の誕生と
その発展を述べるには、
何よりもまず歴史的、社会的背景としての
この国の独立にいたる経緯を知る必要があります。

かつてネーデルランドと呼ばれていた
今日のオランダ、ベルギーにまたがる地方は1516年、
それまでのハプスブルグ家の支配に代わって
イスパニアの属領になりました。

当時のネーデルランドは南のフランドル、
ブラバントからジーラント、北のホーランド、
ホールン、フリースラントの全部で
17州からなっていました。

その南部フランドル地方のブリュージュや
アントワープは運河と良港を持つこの地方の
北の玄関口として外国船の往来も多く、
商工業が栄え、比較的自由な風潮の元で
都市が発達していきました。

市民の多くは新しく台頭してきた
カルヴィン主義を信仰する新教徒たちで、
しばしば本国の旧教徒と対立していました。

そして1556年に即位したイスパニアの
フェリッペ2世は市民にカトリックを
信仰することを強要し、
加えて過酷な重税を課して
市民生活を脅かしました。

これに対し上流階級から市民に至るまで
民衆は反抗し、南部のフランドル地方を
中心に内戦が繰り返されることになったのです。

戦費を調達するための法外な重税は
商工業を麻痺状態とし、
民衆はこの暴政に立ち上がりました。

この相次ぐ戦禍により南部諸州は
北部に移住し1581年には北のホーランドを
中心とした北部7州はイスパニアから
独立を宣言しました。

1609年にはオランダ共和国が誕生しました。
これより1世紀前の1508年、
イタリアのカステル=ヂュランテの出身の陶工
グッディサビノがアントワープに移住してきて、
この地にマヨリカ焼成する工房を開きました。

彼はその数年後土地の女性と結婚し、
妻の姓のアンドリエスに改名しています。

彼は大鷲や鮭と名づけた工房で
マヨリカ風錫釉陶器やタイルを製作し、
陶器の普及と発展に尽くしました。

彼の死後、工房は長子に引き継がれ、
他の息子2人はアントワープで陶工として登録。

その一人ヨリスは戦禍を避けてミテルブルクに、
もう一人はイギリスに渡り、
錫釉陶器の誕生に大きく貢献しました。

彼らのほかクリスチャン・ファン・アベーレは
1584年にアムステルダムに
アドリアン・ボガートは1598年に
ハーレムにその他多くの陶工たちは
デルフトやロッテルダム、
あるいは北のフリースラントに移り住み、
同地で新たに窯を築いて
陶器やタイルの焼成に着手し、
オランダ陶器の発展の礎を築きました。

銀器について

イギリスには古くから
『銀のスプーンをくわえて生まれた子供は幸せになる』
という諺があります。

これは一生たべることに困らない
という例えに由来するもので、
16世紀のイギリスでは赤ちゃんが
洗礼を受けるときに、
キリストと弟子の像をかたどった銀のスプーンを
贈る風習があったからだといわれています。

このころのカトラリーは食事用というよりは
宗教的な儀式に深い関わりのあるアイテムだったのです。

17世紀半ころまで、
料理を大皿に盛り手づかみで食べるのが
一般的だったようです。

カップやボールなどの銀器を食卓で
使うようになったのは18世紀に入ってからの
ことだといわれています。

元々は武器や果物などを切る道具として
携帯していたナイフですが、
刃物製造業を営むマッピン家
(後のマッピン&ウェッブ社)
などの技術により
銀はカトラリーへと
姿を変えていきました。

そして18世紀後半ごろにフランスから
フォークが持ち込まれるようになりました。

銀器の文化が生まれるには
豊かな国政と支配層の財力が必要です。

当時のイギリス国家や貴族階級の人々は
世界でも大帝国で経済的にも豊かでした。

しかし一般の国民も同じであったか
というとそうではなく、
ほんの一部の貴族階級に限られていました。

産業革命によりブルジョア階級と呼ばれる
一般市民層が徐々に力をつけ始める
19世紀中ごろから 20世紀初頭に
彼らが憧れていた貴族階級の生活を
積極的にまねを始めます。

この頃からイギリスの銀器の数は急増しました。
しかし次第に市民階級で貴族のまねではなく、
自分たちのスタイルを作ろうという運動が始まり、
銀器のデザインも大きく変化し始めました。

クイーンアン様式やロココ様式、
ヴィクトリアン様式などに見られるように
豪華な装飾から美しく機能的なデザインを求めたのです。

そしてアーツ&クラフツやアールデコ様式へと
徐々に移っていくことになります。


ホールマークについて


ホールマーク

英国銀器の信頼性はこのホールマークによって得られています。
13世紀後半よりホールマーク制度が始まり、
貴金属の品質を保証してきました。

生産地や年代、製造元などを記した
刻印をホールマークと称します。

純銀にのみ刻印され
銀メッキなどにはこの刻印はありません。

当時は金や銀を貨幣として使用していました。
貨幣制度を守り、偽物の流出を防いでいました。

品質は国営の
アセイオフィース(金属品質検査所)によって
厳しく管理されていました。

不良品や基準に満たない物、
偽の刻印で検査を逃れようとしたものには
重い処分が下されていました。

このような管理運営のもと
クオリティー向上と英国の銀製品に対する
信頼性が増していきました。


ガラス製品

西洋ではガラス製品の人気は
イタリアやイギリスなど各国により様々あります。

ガラス製品よりも
陶磁器を好む国や様々です。

それでは日本にいつガラスの文化が
根付いたのでしょうか。

日本に本格的な西洋式のガラス工場が
東京品川に設立され、やがて欧米と同じ
ソーダガラスの日用の器が作られ、
日本人にも身近なものと次第になって行きました。

近世日本で初めてガラス製品が
作られたといわれるガラス発祥の地は
長崎といわれています。

ポルトガル人または
中国人が伝えたといわれております。

いずれにしても17世紀前半には
吹きガラス製品が作り始められたようです。

江戸時代のガラスは鉛を多量に含む
鉛ガラスで藍色や緑色、
黄色などの色をつけて薄手に仕上げたもので、
ポルトガル語でガラスを意味するビロードと呼ばれ、
その製法は京や江戸に広まりました。

 
日本にガラスを伝えたのは
ポルトガルか中国のどちらかはっきりしてませんが、
1570年の長崎開港のときに
ポルトガル人が伝えたという説がありますが、
長崎で作られたのは鉛ガラスで、
当時ヨーロッパで作られていた
ソーダガラスとは一致しません。

江戸時代の鉛ガラスは
中国宋時代のものと製法が似ており、
ガラス素材の製法は12世紀ごろに
中国から伝来したと言われています。

その後ポルトガル人がヨーロッパ式の
吹き技法を伝えたのではないかと言われています。

今では均一的で規格品になったガラス製品も
アンティークの製品は気泡やしわなどが見られ、
とても味わい深いものが多く残っています。

皆様もぜひアンティークの
ガラス製品をお手に取られてみてください、
規格品にはない温もりなどを
感じることができるでしょう。


オランダのデルフト焼き

17世紀から18世紀にかけて
ヨーロッパの近世陶芸に大きな足跡を残した
オランダのデルフト陶器の誕生と
その発展を述べるには、
何よりもまず、その歴史的、社会的背景として
この国の独立にいたる経過を知ってく必要があります。

かつてネーデルランドと呼ばれていた
今日のオランダ、ベルギーにまたがる地方は
1516年、それまでのハプスブルグ家の支配に
代わってイスパニアの属領となりました。

当時のネーデルランドは南のフランドル、
ブラバントからジーラント、北のホーランドなど
17州からなっていました。

その南部フランドル地方のブリュージュや
アントワープは運河と良港を持つこの地方の
北の玄関口として外国船の往来も多く、
商工業が栄え、比較的自由な風潮のもとで
都市が発達していました。

南部のフランドル地方を中心に
内戦が繰り返されることとなり、
戦費を調達するための法外な重税は
商工業を麻痺状態とし、
民衆はこの暴政に対し立ち上がった。

この間の相次ぐ戦火により南部諸州は荒廃し、
多くの市民は難を逃れて北部に移住、
そしてついに1581年、
北のホーランドを中心とした北部7州は
イスパニアから独立宣言。

こうして1609年の和平により
オランダ共和国が誕生しました。

こういった背景の中、
これより1世紀前の1508年、
イタリアのカステル・デュランテ出身の
陶工ギッド・デイ・サヴィノが
自由都市アントワープに移住してきて、
この地にマヨリカを焼成する工房を開きました。

彼はその数年後土地の女性と結婚し、
妻の姓アンドリエスに改名しています。

彼は『大鷲』や『鮭』と名づけた
工房でマヨリカ風の錫釉陶器やタイルを製作し、
陶器の普及と発展に尽くしたのです。

彼の死後、工房は長子に引き継がれ、
他の息子2人はアントワープで陶工として登録します。

その一人ヨリスは戦禍を避けてミテルブルクに、
またもう一人のヤスパーはイギリスに渡って
築窯、同地の錫釉陶器の誕生に大きく貢献しました。

彼らのほか、
クリスチャン・ファン・アベーレは
1584年にアムステルダムに
アドリアン・ボガートは1598年ハーレムに、
その他多くの陶工たちがデルフトやロッテルダム、
あるいは北のフリースランドに移り住み、
同地で新たに窯を築いて陶器やタイルの焼成に着手し、
オランダ陶器の発展の礎を築いたのです。


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