本場ヨーロッパより直接買い付けした福岡のイギリスアンティーク家具専門店Perla
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家具の歴史

太古から人類が、それぞれの地域や場所で営む暮らしには、その生活を助ける道具類として家具の存在がありました。
個々の英国の家具に触れる前に、まず、大きなくくりとして西洋の家具の始まりについてみてみます。

西洋家具の古代の姿は、人々の日々の生活や営みを助ける道具として、どのようなものがあったのでしょう。
四大文明のひとつ古代エジプトでの家具は、主に支配階級で使用されていました。
それらの中、たとえば、玉座などは繁栄する王朝の権威を誇示し、社会、民衆に、その威光を知らしめる役割を担っていました。

王権の象徴としての玉座には、人間も動物も含めて霊魂の不滅と、来世への蘇生を表現する宗教性が色濃く装飾文様に反映されています。
古代エジプト、初期王朝時代や新王国時代、第18王朝のツタンカーメンの王墓などから寝台やチェアなどを含む様々な家具が発見されています。

家具などに使われた意匠・装飾には、神への祈りを象徴する意味のものが多く使われています。
メソポタミア文明に現れるシュメル人は、エジプト第1王朝の始まる紀元前3100年前後よりさかのぼり、紀元前4000年にはウルク、ウル、ラガシュなどの都市国家を築き上げることとなりまhした。

それらの都市国家に続きバビロニア、アッシリア、ペルシャの文明がオリエントに盛衰しました。
その源であるシュメル人の文化は遺跡のレリーフなどに描かれている描写を通して、使われた家具を伺い知ることができます。

紀元前2800年を過ぎ、東地中海にエーゲ海文明が勃興します。
くれた文明、ミケーネ文明を経て古代ギリシャは、BC8世紀頃から都市国家群として、東地中海地域に反映を築いていきます。

その古代ギリシャでは家具に、機能分化の意識が現れます。チェアにたとえるとトロノス、クリスモス、クリーネ、ディフロス、オクラディアスなどが挙げられます。
トロノスは、古代エジプトの玉座の流れを踏まえた高位、高官や貴人の椅子、クリモスは主に、 女性の椅子とされ、優美なデザインでまとめ上がられています。

また、クリーネは食卓に着くときに、横たわって使用する寝台風の椅子、ディフロスは四本足の背のないスツール型です。
そして、オクラディアスは四本脚がX型に交差する折りたたみ椅子です。

時代がくだり、紀元前753年に建国の伝説を持つ古代ローマは出現します。
紀元前509年に、共和制のローマとなり、ギリシャを手本として、古代ローマの家具は定着していきます。

ソリウム、カテドラ、レクタス、ビセリウム、セラ、クルールスは、ギリシャ時代の家具・椅子の機能分化を、それぞれ受け継いでいます。
共和制ローマの時代末期に、カエサルは歴史に登場してきます。

紀元前55年にいたり、当時英国ブリタニアへの進攻があり、ブリタニアはローマ文化と接点を持つことになります。
それ以前の英国は、イベリア人、ビーカ人、ケルト人などが、それぞれの時代に渡来して先住していました。

カエサル率いるローマ軍がブリタニアに足跡を残したあと、約一世紀を経た頃から、ブリタニアのローマ支配が5世紀初頭まで続きます。
英国でのローマン・ブリテン時代の多くの遺跡が、当時のブリタニアの生活を想像させてくれます。

その中でも1961年に発掘されたフィッシュボーン・ローマン・パレス(ウエスト・サセックス州)には、ローマ時代のヴィラの面影を見ることができます。
当時のブリタニアの上流階級は,この遺跡のような、ローマ風の家具調度に囲まれた生活を営んでいたのです。

ブリタニアからローマの撤退(409年)が、以前から侵略を繰り返していたゲルマン民族の定着をもたらすことになります。アングロ・サクソンの時代です。
その七王国時代を経て、同じゲルマン系ノデーン人の襲来と抗争が繰り返されます。

1500年当時のイギリスの総人口は500万人弱であった。それは今日のロンドンより少なく、現在のイギリスの総人口の10分の1です。
イギリスは何世紀もの間、建築や装飾において非常に水準の高い職人技術を持っていましたが、これらは教会関係のもので、世俗的な建築や装飾は発展しなかった。

理由としては豪族同士の勢力争いが行われたため、領主たちは近隣の敵に対しいつも警戒していなければならなかったからです。
そこで当時のイギリスの富の象徴としては豪華な紋章つきの旗や壁飾り、銀製品や金の飾り物、 毛布など用意に持ち運びができるものでした。

エリザベス1世(1558〜1603)の王位継承に伴いイギリスは国内安定と発展の時期にはいりました。
繁栄が国民全体の物となり、新しい中産階級として貿易業者や商人が出現し大きな屋敷に住んでいる人々も特別な身分でも大地主でもなくなった。

家は生活に即してしっかりと安全に建てられ20世紀の初期まで知られているような、それぞれの階級の生活スタイルが作られた。
その結果召使や使用人たちが主人やその家族と一緒に暮らして、ともに食事をしたりすることもなくなり、彼らもそれぞれに自分たちの住まいを持つようになり、イギリスの家具産業にも変革をもたらしていきました。

アンティーク家具

英国の家具は使用される木材の種類が時代的区分名として用いられるのが一般的です。
大別して以下の4種類の木材による時代区分があります。

  • オークの時代 1500〜1660年代
  • ウォルナットの時代1660年代〜1720年代
  • マホガニーの時代1720年〜1770年代
  • サテンウッドの時代1770年〜1830年代

これらは必ずしも歴代君主の時代区分とは厳密には一致しませんが、おおむね重なりあっています。
エドワード6世、メアリー1世を経て、エリザベス1世のルネッサンス時代になると、家具も貴族階層や大地主のみの家財ではなく、世相の安定と繁栄を礎に、商人や中産階級にも広がり始めます。その結果、それぞれの生活様式に応じた家具が誕生し始めます。

中世の貴族の館マナハウスは、まずはじめにグレートホールが中心に据えて作られました。
そして時代とともに機能分化に応じて館の規模は拡大されていきました。

エリザベス1世の頃になるとグレートホールの中心に位置した火を焚く場所が部屋の壁側に移され、いわゆる暖炉型となり、代わって食卓が部屋の中心を占めます。
それにつれて単に台脚に置かれた長板の食卓が、固定の足を持つようになりました。

家具装飾も球根形の意匠の脚に、食卓の強度と安定を図るストレッチャーが備わります。
椅子も腰掛けや長いすから背もたれのあるダイニングチェアーとなりました。

そして食卓の表面に象嵌などの細工を施したものを造られるようになりました。
かぐ彫刻にはほかにも浅浮き彫りや挽き物の技法が用いられるようになります。

家具工作の様々な道具類が発達し、製作の分業化が進化し、実用重視から次第に装飾性を持つようになります。

西洋への影響

西洋家具の歴史を語るには古代エジプト抜きには語れません。
家具は昔から人々の生活の営みを助ける道具として使われ続けていました。

主に古代エジプトでの家具は主に支配階級で使用されていました。
それを裏付ける発見が第18王朝ツタンカーメンの王墓などから寝台や椅子などを含むさまざまな家具が発見されています。

家具などに描かれた意匠、装飾には神への祈りを象徴する意味のものが多く使われています。
ヨーロッパ各地で古代エジプト家具の流れを踏襲したデザインが見られ、各地に影響を与えていきました。

家具の素材

ジョージ1世からジョージ4世まで(1714〜1830)1世紀以上にわたり、ジョージ朝が続きます。
この時代は、英国家具史上、絶頂期を極めた時代と言っていいでしょう。

ジョージ2世までを、アーリー・ジョージアン時代と称します。
この頃になると、様々な家具が登場します。
ウィリアム・ケントがデザイナーとして英国に新風を吹き込みます。

1719年に、イタリアから戻り、第3代バーリントン伯爵の庇護のもと、建物や庭園、そして家具など、あらゆる方面に、パラディアン様式(パラディオのデザインする古代ローマの古典様式)を用います 。

ウィリアム.ケントは家も室内装飾も家具も一体の、統一感でまとめます。
古典的なポルティコやオーダーを用いた建築を室内装飾や家具にも適用して、さらにぺディメントやコーニスなども意匠化します。

またパラディアン様式と併行して重厚華麗なバロック様式を、コンソールテーブルや椅子などに用いました。
1722年にサー・ロバート・ウォ ールボールがホートン・ホールを作った時、家具調度は多くのギルド家具で満たされます。

コンソールテーブルはその中でも注目の家具とされます。
その結果マホガニーはジャマイカ産をはじめ、プエルトリコ、キューバ、ホンジュラスなど、各地それぞれの特徴を押さえたものが英国に輸入されてきます。

ジャマイカ・マホガニーは家具材として優れた特性を持っていて、ウォルナットより丈夫で色合いも深みのある赤みを持ち、木目も詰んでいます。木材の切り出しも、厚く広く取ることができます。

プエルトリコ・マホガニーは同じスペイン植民地の、キューバ、サントドミンゴとともに、スパニッシュ.マホガニーと呼ばれます。
18世紀後半、ホンジュラスから大量のマホガニーが輸入されます。

ジャマイカ・マホガニーにくらべ、美しさや木目の細かさ、質感の欠如などの短所はありますが、需要を満足させる量がとれました。
高級家具には不向きでしたが、中流家具には膨大な需要に応えることが出来ました。

マホガニーの時代

マホガニーの最盛期は、18世紀中ごろまでです。
その後は象嵌や寄木張りなどの部材として使われました。

この間、トーマス・チッペンデールが登場します。
チッペンデールのデザインは、ロココ様式、ゴシック様式、シノワズリー様式など多様なデザインです。

その中でも特徴的なデザインを挙げると、クラスター・コラム 、フレット・ワーク、組格子デザイン、サーペンタイン・チェアバックなど、多岐にわたります。
家具の専門書は珍しい時代でしたが全国の家具職人、家具工房など多大な影響を及ぼします。

チッペンデール自身も、工房を持ち、完成した家具の販売店や家具用の材木店などをもっていました。
チッペンデールは家具史上、多大な影 響を与えたといってよいでしょう。

来るべきサテンウッドの時代までの、マホガニー時代の特徴をまとめてみます。
まず、キャビネット、ドロワーズなどの収納家具のうち、初期のトールボーイの脚のデザインがオージー形に変わり、脚足も短くなります。 ブックケースやキャビネット類の頭部は、初期のブロークンペディメントに加えて、アメリカンボンネットトップ、スワンネック・ペディメントが登場します。

それまでのテーブルは、ゲートレックテーブルに代表される構造のものが主流ですが、それらに加えて、ドロップ・リーフ形が18世紀中頃から作られます。
ブレックファースト・テーブルも流行します。

これらに、拡張ウィング板と小引き出しの付いた形が、ペンブロークテーブルとして定着して行きます。
小物のかぐとして、コモド、ウォシング・スタン ドなどがあります。

コモドは便器入れの家具でしたが、1760年代までには、マナハウスなどの設備の行き届いた寝室の常備家具となります。
コモドは、本来の語源であるフランスの家具としては、衣装箪笥などの立派な家具を意味していますが、英国では、アクセントの違いがあるものの、後のナイトテーブルと同義語となります。

頭のコにアクセントの場合は、ドロワーズを意味し、末尾のモドにアクセントをつけるとナイトテーブルの意味です。
本来のコモドは、サーペインタイン・シェープやボーブなどの形状を伴ったドロワーズです。18世紀中頃に作られ始めます。

ウォッシュスタンドは、貴族階層に洗顔の習慣が定着した17世紀後半からオケージョナルテーブルとして使われます。
18世紀になり、折りたたみ型の洗面器や石鹸を収納する家具として定着します。

椅子は、背もたれに、ラダーバック、フィドルバックなどの意匠が登場します。
さらに、チッペンデール特有の背もたれとしてリボンド型やシノワズリー(組格子)型がデザインされます。
椅子の脚下に、キャスターが取りつけられ、床面やカーペット類を傷めずにしかもその移動を容易にすることが出来るようになりました 。

キャスターにはレザー・ホイールやスクェアー・カップが取り付けられます。

オークの時代

英国の家具は、その使用される木材の種類が、時代的区分名として用いられるのが一般的です。
ヘンリー8世(1509〜1547)からエリザベス1世(1558〜1603)までは、チューダー様式と呼称されます。

チューダー様式では、食卓としてのテーブルは、台脚に長い板を置いたのが主流でした。
食卓の椅子は、マナハウスの主や客人用は、ハイバックの背もたれと肘掛けを伴った木製の椅子、その他の人は木製の背もたれや肘掛けのない腰掛や長椅子に座っていました。

寝台は引き続き家具として最も重きをなす存在でした。
家具と相関関係にある部屋の壁面の意匠として、リネンホールド型のパネルも、大陸の低地フランドル地方から伝承されます。

エドワード6世、メアリー1世を経て、エリザベス1世ノルネッサンス時代になると、家具も貴族階級や大地主のみの家財ではなく、世相の安定と反映を礎に、商人や富める中流階級にも広がりはじめました。

その結果、それぞれの生活様式に応じた家具が誕生し始めます。
また、イタリアを発祥の地とするルネッサンス文化が、英国に影響を及ぼした例を椅子に見ることができます。

たとえば、折りたたみ椅子のサボナローラ型やダンテ・チェアー型なのです。
ルネッサンス様式とはイタリア語で『再生』のいみです。

中世の枠にはめられた文化から、人間性の解き放たれた精神を、自然の事物の美しさ、豊かさにゆだね表現します。
古代ローマの工芸、芸術に助けを借りて様式化しました。

中世の貴族階層の館(マナハウス)は、ます、はじめにグレートホールが中心に据えてつくられました。
そして、その時代とともに、機能分化に応じて館の規模は拡大されていきました。
エリザベス1世の頃になると、グレートホールの中心に位置していた火をたく場所が部屋の壁側の 部分に移され、いわゆる暖炉型になり、代わって、食卓が部屋の中心を占めます。

それにつれ、台脚の上に置かれた長板の食卓が、固定の脚を持つものになりました。
家具装飾も、球根型の意匠の脚に、食卓の郷土と安定を図るストレッチャーが備わります。
椅子も腰掛けや長いすから、背もたれのあるダイニングチェアとなりました。

そして、食卓の表面に、象嵌などの細工を施したものもつくられるようになりました。
そういった中でも、家具の中心は引き続き寝台でした。

寝台は、それ自体、独自の空間を維持するために、フル・テスターの市中に、彫刻を施した 木製のヘッド・ボード、そして同じく木製の天蓋の付いた様式です。
寝台の支柱に施された彫刻は、球根型の挽き物からカップ&カバー型の彫刻に移行します。

またこの時代、カップ・ボードが、新たにかぐとして加わります。
展示や収納をかねた戸棚形式の家具です。

ジェームス1世(1603〜1625)時代を、ジャコビアン様式と呼びます。
ジェームス1世は、スコットランドのスチュアート家として、スコットランドのジェームス6世でもありました。

このスチュアート朝はクロムウェルのピューリタン革命を区切りとして、前期と後期に分けられます。
ジャコビアン様式は当時の社会の成熟と、ヨーロッパ大陸諸国からの影響により、装飾性の一段と進んだ時代です。

たとえば、これまで椅子や食卓、そのほかの家具に用いられた挽き物は、カップ&カバー型が主でしたが、加えてバーレイシュガー・ターンやボビン・ターン、ボール・ターンの形や、階段のステアーケースから応用のバラスターの意匠を生み出します。

また、スライドする引き出しつきの家具や、伸び縮みできるリーフテーブルなどの機能的な仕掛けが誕生します。
家具の表面加工や板目加工に、象嵌技法が、多く用いられようになりました。

チャールズ1世(1625〜1649)時代は、チャールズ2世(1660〜1685)時代に到来するカロリアン様式のさきがけの期間とみなされます。
即位の年、フランス王アンリ4世の末娘、マリエッタ・マリアをめとります。チャールズ1世は持ち前の教養と知性を発揮し、幅広い趣味や美術工芸、装飾意匠に求めました。

それに加えて、王妃の国フランスの影響も受け、家具装飾史上、新しい様式の波が訪れました。
また、東インド会社によって、海外との貿易が拡大し、英国に無い珍しい工芸品、貴重な美術品から布地、香辛料など、ありとあらゆる品々が到来し、それらは多かれ少なかれ家具装飾に影響を与えるようになります。

家具部材も輸入材のウォルナットが目立ち始め、それらはおおむね、スペインや南フランスから渡来の材料でした。
ウォルナット家具を磨きこむと、オーク材に比較して木目の詰まった深みのあるつやがもたらされ、また加工の作業性にも優れていたので、様々な家具に使われるようになったのです。

その後、ピューリタン革命の時代が到来します。クロムウェル親子の統治する共和制(1649〜1660)の時代です。禁欲の清教徒そのものを反映し、家具装飾はカロリアン様式の芸術的豊満さや、工芸的に洒脱さからほど遠い、質素な機能本位のもに、取って代わられます。

クロムウェリアン・チェアに代表されるように、側の座部と背もたれ、鋲打ちが施された縁取りの簡素な椅子が、そのすべてを表しています。

サテンウッドの時代(1770〜1830)

1811年、ジョージ4世(1820〜1830)が、ジョージ3世の摂政に就きます。
この摂政から国王在位中の1830年までを、美術様式としてはリージェンシー様式と呼びならわします。

ジョージ4世の治世は、その摂政時代も含めて、奔放で問題の多い君主ですが、家具史上、その期間が短いにもかかわらず、家具デザイナーを輩出し、工芸様式も様々なものが生まれ、活況を呈しました。
ヘンリオー・ホランドはプリンス・オブ・ウェールズ時代のジョージ4世お抱えの建築・家具デザイナーです。

ホランドの打ち出したグレコローマンやシノワズリーは、家具史上に、足跡を残しました。
トーマス・ホープは、フランスのアンピール様式や、ナポレオン1世のもたらした古代エジプト様式をデザインに生かしリージェンシーの時代を飾ります。

ジョージ・スミスは、獣像、スフィンクス、グリフィン、ライオン、豹、大胆なスイカズラ模様、アカンサス、シュロの葉のモチーフ等をデザインに用いています。
さらに、多様な古典様式をリヴァイバルさせます。

東洋の漆塗り、椅子の背もたれと座の籐張り、ブールの象嵌細工、ギルディングなど過去の意匠も復活させます。
リージェンシー様式の家具の特徴を拾いあげてみると、たとえば椅子の脚部は、サーブル・レッグ、リーディド、リング・ターンなどが新たに加わります。

キャスターはギルド・メタル、プレーン・トウが現れます。
キャビネット・トップは、リージェンシー・トップがペディメントに加わります。

オリエンタルスタイル・ジャポニズムについて

西洋における様々な東洋美術品に対する関心は初期は冒険家が仕入れてきた知識をとおしてだけだったものが、17世紀の東インド会社の創設後は実際の需要として高まっていきました。

当時は中国との交易のほうが多かったのですが、これは日本が1860年代後期に始まる明治時代まで鎖国をしていたからです。
1868年若い睦仁天皇の即位により政府は大改革をすることになり、以後はそれまで何世紀も続いた日本の伝統の壁は少しづつ破られることになって行きます。

天皇は強い反対を押し切って自分の弟をパリの国際博覧会に派遣し、国際市場への参加の可能性を実現化し始めました。
政府もヨーロッパ(西洋)へ売れる商品の生産を助成したことから、日本の文化や製品に対する予想もしなかったほどの熱狂的な需要が起こりました。

最初に一般公開されたのは1862年のロンドンの第2回大博覧会でした。
1870年には日本趣味は熱狂的なものとなり、以後40年にわたってデザインに影響を与えることになったのです。

日本から持ち込まれたものは扇子、すだれ、掛け軸、屏風、漆箱、象牙の彫物などが広まりました。

イギリス家具のリバイバル

家具産業の発展に効果があった要素には1851年の大博覧会の人気に続いて、続々と開催された国際あるいは国内の博覧会でした。
パリ、ロンドンの展覧会やウイーン、フィラデルフィアは重要でした。

このような展覧会が流行したことで、家具製造者と家具商人の要請から実用より見栄えが重点を置くようになりました。
家具は精巧かつ大げさなものになって行きました。

また多くの職人は新材料で当世風の家具を製造し供給するだけでなく、古い家具の改造もするようになったのです。
それはアンティーク家具に興味が集まるようになったからで、19世紀末の35年間はイギリス家具の大混乱時代になりました。

その間1895年ころ以降の20年間はもう少し軽快で繊細な家具が求められエドワーディアン・シェラトンとは違っています。
材質はマホガニーやサテンウッドでアクセントに対照的な色の木を使って象嵌をしており、象牙、真珠貝、エナメル、白目といった他の材料で象嵌をつけたものです。

これらリバイバル製品は製造法、材質、寸法の3点見ることによって、本物かそうでないかが証明できます。
エリザベス様式、ゴシック初期のようなオーク材の家具と部品を専門に売る店はロンドンにもたくさんあったが、イギリス中の家庭にも16世紀から17世紀風の傷んだりしたオーク材の家具が代々受け継がれて残っていてこれらのオーク材は改造したり、作り直したりするのに向いている材質だと考えられていました。

また20世紀の初頭になると、イギリスの各時代の代表的な家具が再び作られるようになったのです。
エリザベス様式やゴシック様式などのようなオーク材で作られた家具、ウォールナット材を使用したクイーンアン様式と次々にリバイバルが行われ、19世紀末ごろから20世紀はじめにかけて25年間はチッペンデールスタイル(マホガニー)の人気とともに全盛となりました。

イギリスの家具史を見ると、いつの時代にもある流行に対しては抵抗をしていました。
それは機械化に対してであり、ウォーリック(イギリスの地方の町)の装飾彫刻は非常にレベルが高くロンドンやニューカッスルなどのものとは明らかに違う質のよさがあり、オーク材が良質な家具に適するとして見直されることにもなりました。

また当時行われる展覧会などを通じイギリスの家具はデザインや材料、製造法などに影響を受け進化していきました。

バロックとロココについて

イギリスの家具史を見ると、いつの時代にもある流行に対しては抵抗をしていました。
それは機械化に対してであり、ウォーリック(イギリスの地方の町)の装飾彫刻は非常にレベルが高くロンドンやニューカッスルなどのものとは明らかに違う質のよさがあり、オーク材が良質な家具に適するとして見直されることにもなりました。

また当時行われる展覧会などを通じイギリスの家具はデザインや材料、製造法などに影響を受け進化していきました。
ロココという言葉は、岩石という意味のフランス語に由来するのですが、イギリスではバロックを洗練し簡素にしたものを指します。

装飾のバックグラウンドとハイライト、石、花冠、花綱などのモチーフを用いています。ロココ様式はフランスを起源としています。
ロココ様式を率いたのは、ピエール・ルポートル、クロード.オードラン、ニコラ・ピノーらです。

ロココ様式の流行は、イギリスでは1740年代初めから20年間人気を独占しました。
当時最も人気のあったキャビネットメーカーの一人は1730年から1750年ころのウィリアムハレットです。

彼はレイチェスター伯爵でもあったホーケストン卿に雇われました。
また、デフォーが[イギリスでことのほか荘厳な場所]と書いたといわれているチャンドス公爵の屋敷をエッジウェアー近くのキャノンズにふ普請中、チャンドス公爵にも雇われたのです。